カツセマサヒコ、品田遊、ジョイマン高木、夏生さえり、比之葉ラプソディ。5人の作家・クリエイターが、同じ3枚の履歴書から妄想を膨らませて、それぞれの物語を綴る「履歴小説」。
第1話のお題は、世田谷区在住、浅野真悟(21)の履歴書。
書き手は、妄想ツイートで人気を博す、夏生さえりでお送りします。
夏生さえり 第1話「なんでもやる覚悟です 〜志望動機は恋にある〜」
“人間が変わる方法は3つしかない。ひとつめは時間配分を変えること。ふたつめは住む場所を変えること。みっつめは付き合う人を変えることだ。”
これは、あまりにも有名な大前研一さんの言葉だが、ここにもしもうひとつ加えることができるなら、こう付け加える。
「よっつめは、恋をすることだ」
浅野真悟も、今まさに恋によって変わろうとしていた。
*
「なにも知らないのねぇ」
呆れた声。見下すような一言。いや、実際に浅野は梨香子に見下ろされていた。多く飾られた植物のせいか、やや青っぽい匂いのする梨香子の部屋のソファでスマホをいじっているところに、彼女がまたがってきたのだ。いつものような甘いふれあいを期待したが、どうやら梨香子にその気はないようだった。
「他の女がいるような男はやめとけって言っただけだよ? それに、今は俺がいるじゃん」
「そんな正しいことだけで世界はできてないんだよ?」
「んー、わかんないな。俺、梨香子サンより8歳も年下だし」
渾身の口説き文句を無視された浅野は、方向転換を試みて世話したくなる無垢な男を演出してみたが、一度“お姉さんスイッチ”の入った梨香子にはもう通じなかった。鎖骨のあたりで小さな一粒ダイヤモンドがきらっと光るのが目に入った。
「年齢じゃ、ないと思うんだよね」
「言うねぇ、梨香子サン」
茶化したつもりだったが、思いのほか傷ついた男の声がして、自分でも驚いてしまった。
…
浅野がTOEIC900点を取ったのは10歳の時だった。元々、父の仕事の関係で8歳までシンガポールで暮らしていたことと、教育熱心な花道家の母、そして彼の勉強好きの性格が合わされば900点は難しいことではなかったが、「すごい」と周りにもてはやされるうちに、プライドだけが肥大化していった。得意じゃなさそうなことは手をつけない。泥臭いとか、必死になるとか、そういう類のことには手を出さなかった。うまくいくことしかしたくないからだ。逆にうまくいくことなら、続けられる。何年も。
典型的なモデル体型のおかげか、はたまた女の子の好きなものを覚えてみせる暗記力の無駄遣いのおかげか彼はよくモテたが、彼を見つけた女たちはすぐに群がりそして同じくらいの速度で離れていった。
振られ、振られ、振られ続けるその理由を浅野は「俺は女運がない」と推測している。中学から高校まで5年付き合った彼女には、最終的に「頭のいい人が好きだから」という理由で振られた。彼女が何を言っているのか全く理解できず、大真面目に根気よく話し合いを繰り返し、「俺、学年でも1番だし、結構頭いいと思うんだけど、どういうこと?」と聞いたが「そういうところ」と短い返答があったのみだった。
それからというもの浅野は、人を好きになるのをやめた。好きになって、わけもわからないリフジンな理由で振られるくらいなら、遊んでいるのが一番いい。深い話をしなければいいだけなのだ、と気づいてからは楽だった。
そんな彼に街中で声をかけてきたのが梨香子だ。
ヴァイオリンのレッスン帰りだった。あけすけに「ヒモっていうか、たまにうちにきて、慰めてくれたらいいから」と言い切られ、大手企業に勤めている彼女との関係が始まった。遊びなれていなさそうな彼女が、道ならぬ恋で悩む典型的な女のひと(そして声をかけていた時はひどく酔っていた)であることは、すぐにわかった。本当は幸せになりたいのに、なれない不器用な女のひと。
最初は好奇心から彼女の家に通ったが、浅野の興味は徐々に彼女へと傾いていた。
*
ソファの上で押し倒されたままの浅野に、余裕を含んだ笑みで彼女は言う。
「世間知らず、ってやつだと思う」
見かけによらずズケズケとものをいう梨香子を面白く思い惹かれたのは事実だが、ここまではっきり言われてはプライドが傷つく。
「梨香子サンのいう “世間”ってなんだよ。浮気とか不倫とかそういうのがまかり通る世界のこと?」
「またその話。……これあげるから、今日はもう帰って」
大きくため息をついて浅野の胸のポケットに1万円をねじ込んだ梨香子に、浅野は反射的に「Thank you」と答えたが、場違いな発音の良さはやたらと乾いて聞こえた。ソファから彼女が離れる間際に、いつもどおりロングヘアを撫でようとして手を伸ばしたが、その髪の毛は指先をするりとすべり抜けていく。もう一度、鎖骨のあたりでダイヤモンドが光る。
その瞬間。
浅野は猛烈に悔しくなった。無性に苦しくなった。正しさの手が及ばぬ領域で梨香子を惑わせている、見たことのない男の姿が見えた気がした。梨香子の欲しい言葉をかけてあげられる、正しさを知らない男。たぶん、ダイヤモンドは独占欲の現れだ。
「梨香子サン、ほんとにそんな男がいいんすか」
言葉を投げかけたが、会食に向かう準備をしている梨香子には聞こえないようだった。
世間知らず、か。
家を出て最初に目に入ったコンビニにふらりと入り、浅野は驚くほどスムーズに“履歴書”を手にとった。バイトなんかであの男に勝てるとは思わなかったが、何かを変えずにはいられなかった。
奥のほうの冴えない店員に、無表情で履歴書を突き出す。
「一点で、108円ですねぇ」
店員の語尾を伸ばす癖が気になり、思わず店員をみる。名札には「まつざわ」と書かれている。ポケットから取り出した1万円を渡そうとして、思い直して小銭入れを取り出す。
帰りの電車で、膝の上に鞄を置いて机がわりにして履歴書を書いた。ウゥーンと電車は加速していく。
書き終えてふと、自分の上にまたがり余裕を浮かべた顔で笑う女のひとの顔を思い浮かべると、驚くことに頭の中の彼女は泣いていた。彼女の髪を撫でることができるのは、そして彼女を“お姉さんぶらせる”ことなく居られるには。
途中まで考えて、彼は最後に付け足した。
「なんでもやる覚悟です」
……どうやら恋は、人を変えるらしい。
著者・夏生さえり(@N908Sa)
フリーライター。出版社、Web編集者勤務を経て、2016年4月に独立。Twitterの恋愛妄想ツイートが話題となり、フォロワー数は合計15万人を突破(月間閲覧数1500万回以上)。難しいことをやわらかくすること、人の心の動きを描きだすこと、何気ない日常にストーリーを生み出すことが得意。著書に『今日は、自分を甘やかす』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)。『口説き文句は決めている』(クラーケン)。
第2話「生まれ変わりたい〜志望動機は恋にある〜」
第3話 9月25日公開予定
著者からのコメント
10歳でTOEIC900点を取った「特技:暗記」の彼が“なんでもやる覚悟です”と書くキッカケはなんだったのか?と考えていると、その後ろには「恋」が隠れている気がしました。恋が人を変える瞬間を楽しんでください。
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